晴れのち雨に恋をした。

大学生のくだらん日常日記的エッセイと殴り書きの狭間

無題1

「死」という言葉を軽々しく使うのは好きではないのですが、今回ばかりはすみません。

 

僕は過労死がしたい

と言えば語弊がある。

僕は過労死をしてしまうような人生を送りたい

 

つい先ほど友達2人に

「今日は集まってお好み焼きをしよ!」

と誘ったのだが、見事に断られた。

1人は学校の宿題がある。

もう1人は証明写真を撮りに行く(こちらは明確な断る理由ではなかったと思う)と言った。

 

2人は今日、恐らくだが特に用も無く、授業を受けていた日だと思うのですが、

何故2人は「宿題をする」「証明写真を撮る」なんていう事をその日の「主」にして1日を終える事ができるのかどうしてもわからなく頭にきている。

 

そんなことより、皆で集まって喋った方が楽しい出来事であって、その1日の大きな主にできるではないか。

 

そもそも、証明写真なら集まる前に撮れるし、集まった後撮りに行くのに付き合ったっていい。宿題なんてのは集まって自分達の隣でできると思う。

(集中できないとよく言うが、そもそも1人でやっても、それを一生忘れない知識に出来るほどは集中していないため変わらないと思う。)

 

もしかしたら今日、集まるのはめんどくさかったり、連日集まるのは疲れると思ったのかもしれないと考えたが、人生時間軸や宇宙時間軸で言えばこの出来事は1分か1秒もしくは0.1秒の出来事なのだからそれくらいは我慢してでも何か出来事を作るべきだと思う。

 

若いうちは過労死するくらいに遊ぶべきだと思ってる自分がいるし、コントロールが効く「遊び」ではどうせ過労死なんてしないのだ。

 

友よ、何故なんだ。

 

と、殴り書きをしながら怒っていたのが先ほどまでの話なのだが

 

こう文章にしていると自分も冷静さを取り戻して来て、本当のところは自分に対しても怒っているのだと思った。

 

自分は1人では何もできない人間である。

 

ここまで言うのなら、断られたら断られたで、1人で行動して自分自身を疲れさせて、大きな出来事を作ればいい話である。

 

それなのに、1人では何もできない者だから友達のせいにしてしまい、悪口まがいの事を言ってしまった。

(でもこの愚痴というものは、映画の中盤で起こる親友同士の仲違いみたいなもので、むしろ仲間に対してこうゆう感情は必要だと思ってる。それすらも許せる仲でありたい。)

 

結局のところ、友達が自分と同じ思想を持っているていで話を進めており、これは良くない。

 

当然、嫌いになど微塵もなっていない。

 

そもそも考えてみると、自分は友達の事を悪く言えないのである。

 

何故なら僕は今から、2人への個人的な腹いせでお好み焼きを作り酒を飲む。

 

そしてそれを今日という日の「主」にして終えようとしているのだから。